在籍6年を超えてしまい再入学申請をしていた通信制大学院から、合格通知が届いた。
再入学申請そのものは簡単で、簡単な申請書と履歴経歴書、再入学志望動機の提出だけだった。ただ、思った以上に志望動機を書くのに難儀した。なにせ指定文字数が約1000字程度。再入学を志す理由はとてもシンプルで、研究計画書にある研究を完遂し修士の学位を取得したいから。それをそのまま書けば、ものすごく短い。かといって、院試の際に提出した志望動機をまた書くのもおかしい。今回は「再入学」なのだから。さて、どうやって1000字にしようかと、思わず筆が止まる。
いろいろ考えたが、在籍期限を迎えてしまった理由(自分の計画不足、実行力不足、社会や家庭環境の変化など)、コロナ禍の社会や生活から学んだこと、すでに提出し合格している研究計画についてなど、いろいろ繋いでなんとか1000字超となった。提出期限ぎりぎりだった。
指定文字数で書くことは、レポート作成にはつきものだ。様々な試験でも、機関誌への連載でも指定された文字数で書くことが求められる。ただ今回のように、文字数が足らなくて悩む感覚は久しぶりだった。私が在籍する通信制大学院のレポートは、ほとんどの科目が1本2400字程度と規定されている。テーマを設定するだけでも難儀するのに、参考文献を適度に引用しながらきれいにまとめるなんて、私にとって簡単ではない。参考文献を1本読む度に、あれもこれも書かなくちゃいけないような気がしてくる。論旨もまとまらない。そこから文字数に合わせてあちこち削ぎ落とし、それなりに説得力のあものを仕上げなければならない。これがさらに難しい。
ただこれはレポートに限らない。日常生活の様々で、長い文章は歓迎されないことが多い。シーンや媒体を問わず、文章はできるだけ短く、少ない文字数でまとめること求められ、文章術の指南書を読めば読むほど「短く、わかりやすく」とある。理由は1つ、その方が読みやすいからだ。会社の社内チャットでも、社外のメールやチャットでも、「文章が短い」と修正することはほぼないが、「文章が長い」と修正が入ることはしょっちゅうある。
文章は、長いというだけで読む側の意欲を低下させる。よほど魅力のある書き出しや文体でなければ、読んでもらえない。それでも長い文章や物語で売れている本はたくさんある。文体が硬かろうが、小難しい表現にあふれていようが、気持ちよく読める本や論述はたくさんある。それはやはり、書き手の力がすごいのだろう。「読ませる力」なのだろう。その一方で、少ない文字数や語彙でわかりやすく伝えることも、また難しい。情報が少ない分、読む側の受け取り方によって誤解が生じやすいし、少ない文字数に詰め込むと、長い文章以上にわかりにくい文になることがある。短く、かつ伝わる文章にも、それ相当の技術、センス、経験が必要だと思う。
そして近年は、SNSの登場で見えない文字数の制限を多々感じる。長文のメッセージや投稿は「レシート」と揶揄されることがあるが、SNSという場において長文が歓迎されていない現れだろうと思う。それを感じるからこそ、FacebookでもInstagramでも、LINEのチャットでも、無意識的に長い文章を書かないようにしているが、それはとてもストレスが溜まる。20年くらい前にブログを書いていた頃は、とにかく思い浮かぶままダラダラつづっていたし、mixi時代なんかは気心の知れた人だけに公開されている閉じた空間ということもあり、好き放題書いていたと思う。もちろん自分の中にあるモラルや倫理を大切にしていたが、時代的な価値観や倫理などへの配慮など、やんわりとしかしたことがなかったと思う。
そう思うとX(旧Twitter)の140字というのは、文字を読み書くことへのハードルを下げる部分もあり、上げる部分もある面白いSNSだ。チャットの会話よりも長く、何かを伝えるには短く、様々な短い文体が、様々な情報を内包し、毎日大量に投下される。小鳥がさえずるかのごとく、小さくかわいらしいが、時に騒々しい。改めてTwitterという旧名称は秀逸で、愛着の持てる物だったなぁと思う。
そろそろこの記事も1500字を超えてきたところだ。いい湯加減でダラダラできるブログという媒体が、マインドフルで、いま一番好きだ。